エキソニモへのインタヴュー

Photo by Niko

インターネットアートのはじまり

―コロナ禍を背景に、今回オンラインの会場と美術館の展示を同時に結びつける形式の展覧会というアイディアを実現できることは、実際にエキソニモの24年間の活動を振り返る個展という意味では、適切なアプローチであったと思えています。サブタイトルにも「インターネットアートへの再接続」というメッセージがあり、まずお二人にとってインターネットアートとはどういうものなのでしょうか?

千房     そもそも僕らはインターネットから活動を開始した最初の世代だと思っているんですよ。多分今の若い人たちは、インターネットから活動を開始するのは当たり前な状況ですけれど、僕らの時は初めからインターネットというのはほとんどいない。基本的にインターネットが普及し始めた最初の頃で、オフラインで何かしらの活動をしていた人たちが自分の活動をインターネットに持ち込むパターンはあっても、インターネットから作品を始めることは少なかったですね。だから今のネットアートの感覚と、自分たちの持っているインターネットの感覚は、全然違うものなのかなと思っています。

その後、現実空間での展示の経験が増えてきて、だんだんネットアートから距離が出てきて、特に最近ではマテリアルや空間への関心にシフトしてきた状況のなかで、今回の新型コロナのパンデミックが起きました。そこで現実空間が一旦シャットダウンされて、同時にネット依存みたいなことがすごく進んで、またネットアート自体のリアリティみたいなものが急浮上してきた。過去に自分たちが出発した原点としてのインターネットを使って、もう少し何かができないかという感覚が出てきました。今回の個展の方向性が急激に変わったのも、やはりその影響はすごく大きいのではないかなと思っています。

―実際にインターネットの活動を開始した時に、すでに海外ではJodiやUbermorgenといったネットアーティストがいたと思うんですけれど、そういったインターネットアート自体は意識していましたか?

赤岩     1996年から1999年くらいまでの制作を始めた頃は、インターネットアートというムーヴメントを知らないでやっていました。とにかく、インターネットを使ってできる新しい何かがありそうだというので、何だかわからない、最初の時点では作品とも思わない、何か遊び場みたいなものを作る感覚でやっていました。1999年くらいに初めてJodiを紹介されて、それをきっかけに似たようなことをやっている人たちがいることを知って、そこから初めてインターネットアートというものを意識するようになりました。ただ自分たちが作っているものが作品なのかゲームなのかジャンルの位置付けも全然できてない状態で、ネット上にいろいろと落としていった感じでしたね。

―むしろ二人の中でアートとは距離を持つ、アートとは違うことをしたいという意識があったのでしょうか?

赤岩     そういう感じはありました。面白いことをやりたいという意識はすごくあっても、そもそもアートをやっていきたい意識はなくて。例えば紙のような旧来のメディアで表現したら後からそれを変えることは難しく、ゴールを決めてそこに到達しなければいけない緊張感があるけれど、インターネットの場合は表現をどんどん更新できるし、プログラムでどんどん新しいものが生成できる。いきなり海外の知らない人から直接リアクションがきたりもするし、そのスピード感と距離感がすごく面白いと思いました。こんな面白いことがあるなら、やるしかない!という感じで。ただそれがアートとは最初は思っていなかったんですよね。

千房     最初の《KAO》(1996)は、福笑いみたいな作品で目、鼻、口を編集して送信すると、サーヴァー上にいる顔の特徴を引き継いだ子供が生まれて、その次に送信された顔がそれを引き継いでどんどん子供が産まれていくというシンプルなシステムです。それを作っていた頃は若くて、そこまで思慮深くもないし、ちょっと生意気で。美大を卒業したばかりだったのですが、当時は美大生が絵画や彫刻など旧来のメディアを使っているのをみて、何かちょっと見下していたんですよね。何でそんなに古臭いことをやっているのだろうという感覚があって。そもそも人間が何かを意識的に創造するみたいなことに対しても、ハスに構えていて、何かダサいなあと。《KAO》では、自分が作った顔が送信した瞬間にズレるんですよ。前の顔が合成されて、子供が生まれて、そこに関しては何か、「してやったり」というか、作ったものを目の前で壊してやったみたいな意識は結構ありました。今から思うと、若気の至りですけれど、当時は結構そういうことに対する反骨心みたいなものがあったのは覚えていますね。

エキソニモ誕生

―エキソニモが登場した1996年頃って、あまり二人の顔が最初に出てこなくて、ストリートカルチャーの中から、パンクな人たちが現れたような印象がありました。ネットアートが格好いいというよりは、アノニマスなことを展開していくことに勢いがあって、アートというよりは音楽やオルタナティヴなカルチャーと繋がっている人たちというイメージだったんですよね。

赤岩     たしかにアートと繋がっているという感じじゃなかったですね。ネットでやっているし、自分たちの顔を出すこともほとんどなかったし、どこの誰だか全然わからないし。

千房     名前自体もどこの国の誰だかわからないことを、ぼかす感じを意識していた。

―アートの中にコレクティヴは結構あるのですが、二人組のユニットは多くなくて、むしろ、ネットアートに多いのでしょうか。

赤岩     そうなんですよ。Jodiは名前は女性的だけど、会う前は、太った結構オタクな人がやっているのかなって勝手に思っていたら(笑)、男女のカップルで、えーっ!て驚いて。ゼロワン(0100101110101101.org)もUbermorgen もカップルだったんですよ。他にも会ってみたらカップルというパターンが結構あって。エキソニモが2人でやっていたのは、コンピュータが1台しかなかったからですよ。1台のパソコンをシェアしながら使って、メールアドレスやら全てをシェアしていました。今は1人に一台かそれ以上だけど、当時は家で一台をシェアするパターンが多かったのではないかと思います。私の予想ですけれど、だから初期のネットアーティストはカップルが多いのではないかと思っていて、結構外れていないと思っているんですよ(笑)。

―それで言うと、Jodiもエキソニモもそうですが、名前自体が詩的で、言葉がイメージを喚起させるという特徴がありますね。エキソニモという名前の場合はどうなのでしょうか。

赤岩     やはりネットはアノニマスなところがあるので、少し自分たちを引っ込めるというか、そういう意識で名前を付けているパターンというのは多い気がしますね。うちもそうです。

千房     ゼロワン(0100101110101101.org)も、彼らはサイコロ振って決めたらしいですよ。それは個人の意識が介入することを拒んでいたところがあって、オープンソースもそういうムーヴメントの一つですけれど、最初の頃のネットは、個人というより、匿名性が社会を変えられるのではないかという理想というか幻想があったのではないかと思います。

赤岩     エキソニモも意味がないです。グループ名や会社名を決める時は、大抵理想やコンセプトを凝縮していこうとするものなので、最初は結構いろいろ考えて、でも何かピンと来なくて、何かが違うとずっと考え続けて頭がいっぱいになった時に、私の口からぽろぽろっとランダムに出た言葉です。「それいいんじゃない?」ということで、本当に今までにない言葉で、最初は音だけなので、字をあてていきました。最初は呼ばれても今イチピンとこなくて、全然自分たちの名前という気がせず、慣れるのに結構時間がかかりました。しばらく経ったら少し馴染んで、しかもその名前に意味が出てきて、その変化も面白かったです。都合で言うと、他にない言葉だから検索では自分たちしか引っかからないなど、ネット的に割と良かったです。

―名前が決まったことで、アーティストとしての活動を自覚し始めたということですか?

千房     そこは結構ジレンマでもあって、最初は個人の意識を否定的に捉えている部分があって、《KAO》で作っているものが壊されていったり、《DISCODER》(1999)もウェブサイトをバグらせたり、《FragMental Storm》(2000/ 2002/ 2007/ 2009)もウェブページで画像をミックスしたりする「ツール」として作っていて、最初の頃はランダム性によって人間の持っている意識を壊すことがクリエイティヴだって考えていたところはあって。そういう意味でも、自分たちの個性は背後に潜ませていく方法だったのが、活動を続けていくと、それ自体がアイコンになってくるし、活動の幅を広げていく時に、自分たちを隠すことに弊害があって、徐々に変わっていったという気がしますね。

オンラインとリアルの感覚の行方

―物理的にも2000年代にはインスタレーションをどんどん作られて変化していますし、領域や社会的な意識の幅も広がっていきます。その中で、インターネットアートはお二人にとって初期の活動として位置づけられるものなのか、それとも今でも一貫して繋がっている活動になるのでしょうか。

千房     いわゆる「net.art」というものと、今のネットアートとは全然違うと思っていて、初期の頃は新しいフロンティアが見つかって、そのもの自体を素材にいろんな人がチャレンジして作品化していた実験的な段階だったと思います。それがかなり一般化して誰でも使える場所になってくると、インターネット上でリッチな表現をしていったり、ネット技術もアップして、例えばflashでスムーズなアニメーションを動かしたり、音と同期することも簡単にできるようになって、過去の表現技法を駆使していろいろなことが可能になると、ネットでしかできないというより、ネットでもできるということになってしまう。例えば普通の映画館で観られるものが、ブラウザ上でも同じように観られるようになって来たと思うんですよ。そうなるとインターネットというメディアの特性というよりは、ただの器として使っているにすぎなくて、今のネットアーティストも、CGを使ってただネットで見せているだけだったり、ネットである必然性のないものも結構増えていると思います。むしろピュアな昔のネットアートはほとんどなくなっている気がするんです。

赤岩     90年代のインターネットアート初期の時代は、インターネットに入る、つまり向こうの世界へ行くというのはかなり特殊な行為で、現実世界と切り離された向こうの世界で体験する作品が多かったと思うんですけれど、2000年以降、現実の世界とインターネットの世界の境界がだんだんぼやけてくるにつれて現実世界とネットの間を行き来するような作品が増えてきたのではないかと思います。 インターネットの普及と進化で、ネットアートの表現もだいぶ変わって来てますね。

千房     あと「ポストインターネット」が出て来ますよね。あれは逆にインターネット上でしか存在できない感覚や触覚みたいな感覚を現実空間にわざと持ってくる、そういった逆流ではないかと思うんですよね。そんな中で、新作の《Realm》(2020)は初期のネットアート的なネット上でしか存在できない空間、触覚みたいなものを作ろうとして作ったんです。

赤岩     意識するもしないにもかかわらず、90年代中盤にインターネットを始めた感覚は、どうしても抜けきれなくて、それを常に持ち続けて、ネットと現実の中で作品を作っていると時々思います。「インターネットヤミ市」(2012-)や「IDPW(アイパス)」では、ネットとリアルを取り上げつつ新しい試みを行いながらも、やはり根っ子には、インターネットを人生の途中から知った人間の感覚があります。今の子供たちは、生まれた時からネットに接しているので使い方が全然違うんですよ。例えば今回コロナ禍で流行っていると言われる、ZOOM飲みを例に挙げると、あれは現実で起こっていることを何とかネット上でもコミュニケーションする方法として無理にやろうとしていますよね。今の子供の場合は、オンラインゲームのその中がリアルになっている。娘がインスタグラムに自然の写真をアップすることが多くて、毎日墓地に散歩に行って、そこが自然が豊かなので、花や木を撮ったりしているんですね。彼女は《Minecraft(マインクラフト)》というゲームが好きで、自然の中でいろいろビルディングしていくゲームなんですが、彼女のインスタグラムを見ると、現実の自然と《Minecraft》の中の自然がミックスして入って来ていて、お互いが関係しているんですよ。オンラインとオフラインの自然の扱いが全く同じなんですよね。あっちとこっちという感覚がなくて、そこは自由自在なんですよね。

―今の世界自体はインターネットを人生の途中で知った人たちだけで作っているので、その言語で世界が作られてしまっていますけれど、今の子供たち世代が世界を作っていくと全然違う世界が見えてくるということですよね?

赤岩     そういう子供たちを見ていると、まだ自分はあちらとこちらの意識で始めた感覚をずっと持っているなと思いますね。そういう意味でいうと、自分は初期のインターネットアートの感覚を持って作品を作り続けているなあと。それをやり続けると、むしろそこが特徴になってくるのかなと思いますね。なんでわざわざそんなことするのだろう?みたいな(笑)。

東日本大震災とNYへの移住

―ただそんな中でも、インターネットの世界が窮屈になってきて「インターネットヤミ市」をはじめますね。そして少しして2015年くらいにニューヨーク(NY)に移っていく訳ですけれど、どのような事情があったのでしょうか。

赤岩     辿っていくと、一番大きいのが地震(東日本大震災)ですね。震災があった時に東京にいて、子供もいたし、私の福岡の実家に行ったんです。自分たちは場所は関係ないから、東京を1回出ようと拠点を移して活動を始めました。その時に、日本のいろいろな場所にいる友達と繋がって、インターネットとリアルをテーマにしたグループを作ろうと、不定期に実験的なイヴェントをいろいろやっていましたね。それこそZOOM飲みみたいな、「ワールド・ワイド・ビアガーデン」(2012)という、参加者それぞれの場所で飲み会をしてヴィデオチャットで繋いで、ネット上をビアガーデンにするイヴェントをしたりしていました。その中で生まれたのが「インターネットヤミ市」です。2回日本でやって、次どこでやったらいいか、この感覚は日本だけで通じるものなのか、海外でも共有できるのか、ちょっと見てみたくて、ちょうどトランスメディアーレ(Transmediale)2014で出さないかという話があって、初めて海外に出したんです。ヤミ市は基本的に誰でもできる、オープンプラットフォームのルールにしたので、自動的に広がり始めました。それまでは東京はすごく楽しくて好きだったので、海外に出たいなんて1回も思ったことがなかったのに、福岡で活動しつつ日本を見ていたら、東京がローカルに見えてきて、日本自体も外から見たら、ある意味ローカルなのだろうと思って、1回日本から出た方がいいという気分になったんです。それでNYに行こうと。

千房     二つ理由があると思います。一つは震災。震災が起きるまで東京にこだわりがあって、展示で海外に呼ばれても東京の方が全然面白いと思っていました。それが震災が起きた瞬間に消え去ったんですよ。ちょうど子供も2歳になる前で、その時に一番大切なものは家族だと思い、土地が揺れるなら家族単位でどこでも行けた方がいいという。場所に対するこだわりが一瞬で消えました。

もう一つはソーシャルメディアが普及したのもちょうどその頃で、Twitter や何やら出てきてUstream が流行ってて、クリエイティヴな人たちやネット系の人たちが出てきていました。その時に、僕も結構そこの世界に入っていて、盛り上がりの中にいたのですが、全部日本語だと海外に対する視点が少なくなって、気が付いたら日本国内に活動が閉じていきました。また子供が生まれて気軽に海外に行けなくなったことも含めて、どんどん活動自体が日本に閉じて、その時にふと昔のインターネットを思い出したんです。最初の頃はすごくオープンな雰囲気で、ホームページで作品を出していると、急に海外の人から「見たよ、面白かった!」みたいな感想が割とあって、そういうのもあまりなくなって、何か閉じてきちゃっているので、そこの壁を超えないといけないとすごく思ったんです。

―なるほど。逆に最初に登場した時のネットアートの盛り上がりは実際には2000年代には消えてきていたんですね。

千房 2000年くらいがネットアート自体はピークだったんじゃないかな。「ネットアートは死んだ、net.art is dead」てどこかで記事も出ていましたけど、当たり前のものになって、薄くなって、ソーシャルメディアの時代になって、自分としては活動がドメスティック化していく。濃縮されて速度があがって、でもどんどん小さくなっていくということに対して、その壁は超えたいという意識で、それがNYに繋がっていきました。

赤岩 そうですね、どんどん閉じている感じがありましたね。各国そういうところがあって、アメリカも結局そういうところがある。

東京に対する意識も変わっていきましたか?

千房     福岡に震災後に住んでいた時に、東京でサブカルチャーと思っていたものが福岡に行くと誰も知らなくて。僕はそれが「日本の」サブカルチャーと思っていたんですが、「東京の」サブカルチャーなんだと気が付いて。それこそ共通の話題がメインカルチャーの芸能人とかそういうことくらいしかなくて、     自分が思っていた以上に、サブカルチャーというものが小さかったことはすごく実感して。

赤岩     そういうことすら中にいると気付けないと思って。これは危険、だから日本自体もそうなんじゃないかなという感じになった。まだ動ける元気があるときに1回出ようみたいな。10年先は体力ないから今しかないということもあって(笑)。

千房 ちょうど子供も幼稚園が終わったときだったから。このタイミングしかないということで、まず一番しんどいところに行こうと。NY自体には全くこだわりはなかったです。

赤岩     わたしも全然アメリカ好きじゃなくて。

―NYにネットアート系の人たちがたくさんいる印象はなかったですからね。ベルリンなどのヨーロッパ都市ではなく、たしかにNYは意外ですよね。

千房   楽なところに行こうという意識が全くなかったです。英語はできるようになりたいので、英語圏もしくは英語も通じる街というのはありました。ベルリンやアムステルダムなどは候補だったけれど、今行ったら馴染みすぎて終わるかもなと。活動をしやすい場所を選んでいるということもなく。

赤岩     ネット系が盛り上がっているわけでもなく。

千房 盛り上がっているから行くわけでもなく、英語中心であって、チャレンジし甲斐がある、ハードルが高いという点。

私自身もほとんど震災以降でしかものを考えてないところはありますが、やはりお二人にとって震災はすごく大きかったってことですよね。

赤岩     それがかなり大きな転換期。

千房     そこで一回何かが変わってしまいましたよね。震災以降はチャリティも含めてアーティストが反応する活動が増えて、反原発に言及することも一杯ありました。でも自分たちはあまりそこにリアリティを感じられなくて、そういうことは時間とともに自然に形になって出てくるんじゃないかと。自分の実感覚として、2年くらいすると、何か起きたことが身体に染みついてきて、作品の中に反映してくるみたいな感覚があって、それを待つということでも全然いい気がしているんです。今回のBlack Lives Matterも即座に反応して作品作る人もいるだろうし、プロテストに参加したり発言したりは勿論あるけれど、それを経由して、その問題意識を自分の中で醸成して必ず作品に影響してくるとは思っているので、その場で即座にやることが、本当に反応していることなのかどうかということはありますね。だからむしろ意識の方にドライヴされて何かアクション起こすことだけが重要ではなくて、ちゃんとそれが自分の中に染み付いていつか出てくるんだってことを信じて活動している。それも一つの反応の仕方だと思う。

NY以降の作品

エキソニモの作品自体も変わってきているように思います。《The Kiss(2019)にしても、視覚的にポップで、一見わかりやすい。実際にはそこまでわかりやすい訳ではないですけれど、一瞬で目を引くような作品が増えてきているような気がします。

赤岩     環境ですよね、NYのような多様性のあるところでは、細かいことを言っても通じないですから。日本だと本当に細かいニュアンスでの勝負が多い。細かいこけ方しても、こけたかこけてないかハッキリ見せないと伝わらないような感じですよね。

千房     変化球で勝負するところが日本にいた時にはあったけれど、今はど真ん中に直球投げなきゃダメみたいになっている。

赤岩     ど真ん中に直球投げることが変化球になるというか、私たちアジア人で、日本人が投げる直球が他の人たちにとっては変化球にもなる。村の中で変化球投げるのはその中での味わいがあるのかもしれないけれど、味なんか全然伝わらないみたいな。そういうところに、わかりやすさやポップさが出て来ているんじゃないかと思います。

千房     《The Kiss》もそうだし、まずKISSって言葉が日本にいたら絶対使わないし、《I randomly love you / hate you》(2018)もLOVEとかHATEとかの直球な言葉も、日本にいたら恥ずかしくて使わなかったと思う。でもこっち来たらそれくらい言わないと伝わらない。

赤岩     受け取る側が多様で、受け取り方が全然違う。むしろそれくらいでやらないと、いろんなものが引き出せない。

―NYで初めて作った作品はどれですか?

千房     《Body Paint》(2014)は日本で作っていて、《HEAVY BODY PAINT》(2016)はNYで作りましたね。《Kiss, or Dual Monitors》(2017)もそうだし、あとは《Feed》(2016)って食べる作品など。

お二人でも作品の変化は意識されていますか?

千房     本質的には全然変わっている感じはない。表現としてストレートになるのは、意識しているというよりは自然とそうなってしまう。ならざるを得ない。意識的にどうこうはあまりしないから、やっていること自体はそんなに変わっている気はしないですね。
 ただ日本はICC(NTTインターコミュニケーション・センター)やYCAM(山口情報芸術センター)を初めとして、ネットワークが割と繋がっていて、僕たちの活動も主にメディアアートの周辺の人たちに受容されている感覚があったけれど、最近は全く違うタイプの人たちも増えて、受け取られ方が変わってきている気もします。あと、コマーシャルギャラリーでの展示も出てきて、客層も変わってきている。

それは日本でも同じですか?

千房   例えば MAKI Gallery やあいちトリエンナーレでも、作品を見てくれている人たち等、昔は本当にこの界隈の人たちが多かったのに、逆にこの界隈の人たちの反応が全くなくなって、全然知らないような人たちからの反応が増えている。エゴサーチしても、昔は玄人の人たちが反応してくれるのを見ることが多かったけれど、全然知らない人たちが「楽しみにしている!」みたいな反応をしてくれている。

赤岩     自分たちのやっていることの感覚がかなり一般化しているのではないかと思います。昔は割と技術に詳しい人と共有できる感覚だったのが、一般化してきている。

千房   誰もがインターネットをやっていて、普通の人たちのリテラシーが上がっていることもある。

赤岩     それで《UN-DEAD-LINK》(2008)に話を繋げると、今コロナの状況で、インターネットのリテラシーが上がった状態で、インターネットアートを見せて、自分たちのやっていることにどういう反応があるのかはちょっと楽しみです。

《UN-DEAD-LINK》と《UN-DEAD-LINK 2020》

それでは、今回コロナの状況の中でなぜ新作として《UN-DEAD-LINK》を発表するのか、作品について話していただけますか?

千房 元々はスイスの[plug.in]というギャラリーで2008年に個展があった時に制作した作品です。その前に制作した、3Dのゲーム空間と現実が接続している《Object B》(2006)と近い作品です。まず、ギャラリーの1階にグランド・ピアノがあり、ラジオや照明、シュレッダーなど色々なオブジェや電化製品が時々ランダムに反応しています。ピアノの鍵盤もいろいろなキーがポロンポロンと鳴っていて、同時にラジオが鳴り、空間全体がいろいろな音を出して、アンサンブルしている作品で、それだけでは普通にサウンド・インスタレーションのようですが、地下の螺旋階段を降りていくと、真っ暗な空間にゲームの画面が映っています。そこには30−40人くらいのキャラクターたちが、自動的に動いて殺し合いをしているんです。そこで死ぬと上の階のモノが動く。このキャラクター全員はそれぞれの鍵盤のキーに割り当てられて、その人の死が上の階を動かしている構造になっていると後で気が付く。地下空間の真ん中に赤いボタンがあって、それを押すと全員が死んで、上からジャーンとピアノが一気に鳴るという仕掛け     になっています。コンセプトとしては、ゲーム空間の中での死が、現実空間に影響してくる構造で、二つの空間を接続します。

作品を作るアイディアの元になったのが、いつの事故だったかわからないけれど、昼間に吉祥寺を2人で歩いていた時に、いきなり停電になって。まずコンビニが暗くなって、よく見ると、街全体が停電していたことがあって。後で知ったところによると、自衛隊の航空機が送電線に突っ込んで、その事故の影響で東京の街が停電になったことを知ったんです。その時に思ったのが、航空機が突っ込んで事故になったということは、乗っていた人は死んだわけで、その死んだ瞬間を自分が体感する結果になった。その人の死の瞬間を何万世帯の多くの人たちが体感したことに、すごく驚いたというか不思議な感覚がしたんです。その後、イラク戦争がずっと続いていた頃に、その戦況報告をテレビでやっているのを見ていて、テレビでは民間兵が何万人空爆で死にましたと、数字だけがバンバン上がってくる。これらの出来事が繋がって、人が死ぬような出来事は、普通はパーソナルな経験で、僕は2006年に父親を亡くしているのですが、身近な人が亡くなるのは、物凄くショッキングな出来事だけど、遠くの場所にいる人の死が、ただの数字になって、何十人何百人死にましたとなると、全くリアリティが感じられない。そのギャップが気になって、ゲーム空間の中で死ぬこと、現実空間の中でそれに反応することを再現しました。今回特にコロナの状況では、また同じような状況で、何人死んだ、今日は何十人感染したと数字だけがバンバン出てきたのですが、ロックダウン中に、それだけの人が死んだことを、リアルには感じられなかったわけです。だから同じように、《UN-DEAD-LINK》が急浮上してきて、今回は新作を作ろうという話になり、展覧会のメインタイトルにもなってきました。あと、「UN-DEAD-LINKアン・デッド・リンク」という言葉は、インターネット上でリンクが切れていることが「DEAD-LINK」で、それが「UN-DEADアン・デッド」なので、ゾンビのように蘇っているという意味でもあります。今回の個展は、特に過去の古いインターネットアートをまた呼び戻して展示するところが、まさに今見られなくなってしまった作品をもう一回蘇らせる展示ということとも重なってくるので、ふさわしいタイトルだと思って付けました。

拡張するエキソニモの活動

エキソニモの作品自体には、感情を引き起こすような要素があるのですが、作品のタイトルなどで考えると、とてもクールな言葉が並んでいるように思えます。こちらは意識的なのでしょうか?か特徴があるでしょうか?

千房     初期の作品は割と《DISCODER》(1999)とか、「ER」がついていて、何かをする道具みたいな名前で、ソフトウェアの名前みたいなことは気付いたことがありますね。

赤岩     実際「ER」が付いているのは《DISCODER》くらいしかなくて、そういうのは嫌だと思っていたような気がする。作品を動かして起こることをタイトルにしているとか。

現象とかモノ、実際にインターネットはモノではないですが、それをモノに置き換えてくるみたいな感じはありますよね。インスタレーションだけでなく、名前付けも活動の一つになっているようにも見えますね。

千房     なるほど。例えば《Body Paint》(2014)も名前変えたよね。最初は「大古事記展」でのインスタレーションの一部だった作品で全体には、《神、ヒト、BOT》(2014)というタイトルをつけていました。

赤岩     終わって切り離した時に、「違うね」ってなって。

千房     たしか《PHOTOPLASM》っていうタイトルにして、それも好きじゃないってことになった。なんかの展示に出して客観的に見た時に、これってBody Paint ってストレートに言った方が面白いよねってことになった。元々は今の時代のボディペイントはここまで塗らなきゃだめだよねって話から始めていたから、そこに先祖返りしたようなところがありますね、それで改名したんだよね。

赤岩 ステートメントがタイトルにも含まれているとかそういう話ですよね。

―コンセプチュアルアーティストはそういう部分があると思うので、そこにも繋がるところはありますよね。

千房     そうですね。デュシャンの《泉》(1917)みたいに、違う角度からある特定の意識を与えるという点はあるかもしれないですね。

メディアアートだけでカテゴライズしてしまうと、エキソニモのそういう面白さが抜け落ちてしまう気がしますね。むしろ、大きな美術の歴史のなかで見ていくほうが腑に落ちることも多いです。

千房     たしかに僕たちの活動をメディアアートだけの角度だけで考えていくとつまらなくなってしまう気はしますよね。

それは24年間の長い活動の中でそうなっていったのでしょうか?

千房     どうでしょう。活動を始める以前メディアアートは全然好きじゃなかったですからね(笑)。

赤岩     自分たちで敢えてメディアアーティストと名乗ったことはあまりなくて、そう呼ばれるから、なんとなくなっている。皆がそう思うなら、否定はしないという。

千房     アルス・エレクトロニカ(Ars Electronica)のような専門的なフェスで展示をするようになったら、他のメディアアート作品見て、何か物足りなさを感じることが多くなりました     (笑)。勿論面白くて意味のあるものはあるのですが、作り手の癖みたいなものが滲み出てないというか。

赤岩     メディアアートとしてこの技術使ってますみたいな作品がつまらない。

千房     それと繋がるところでは、工学系の学生って、ジャクソン・ポロックの作品見ても何にも感じないらしくて、なんでピンとこないかっていうと、全く再現性がないかららしいんですよ。再現性を抽出できれば世の中の役に立つと考えるみたいで。

赤岩     それはアートを否定している?アンチアート?旧来のアートを超えたいと思っているのかも。

千房     メディアアートってそういう雰囲気がある。このテクノロジーを使っているから誰でもこれができる、みたいな。

赤岩     ベースに今までのアートの否定があると思う。

千房     ある特定の人がやったことではなくて、それをもっと民主化してってこと。そういう意味でいうと、初期のエキソニモにもそういう部分があったけれど、メディアアートの世界にいて見続けた結果、そこの夢は薄れていったというか。

赤岩     そういう葛藤は今でもずっと持ち続けているから、工学系の人が言う気持ちもよくわかる。

一方で現代においてもアートは作家主義が強いですよね。

赤岩     新しいメディアを使っている人でもこっちでは作家主義は、やはりあると思う。

千房     そう言う意味ではメディアアートは、作家主義に対するアンチテーゼがあって、それがロックだ、みたいな面が面白いと思っていたけれど、どこかで変わってしまったというか、メディアアートが変わったのか自分が変わったのかわからないですけれど。今はまだわからないですね。

赤岩     西麻布のイヴェントスペース、スーパーデラックスに入り浸ってライヴを見ていた頃とか、メディアアート的なものも作っていたけれど、その辺で結構葛藤があった時期はある。

スーパーデラックスの東京における役割も大きかったですよね。

赤岩     友達もその周辺の人たちで、とにかく毎日遊びに行っていましたね。行けば何か面白いことをやっていて、そこで体験するものがメディアアートとはあまりにも違っていて。 千房     遊んでいた友人の誰にも伝わらなかったという(笑)。

メディアアートも当時からは随分多様化しましたね。

千房     ものすごく広がっていろいろなものになっているんだろうなとも思うし、自分たちや大度くん(真鍋大度)世代がやっていたことは、アルス・エレクトロニカ系のことが多かったと思うけれど、最近の若い人たちの場合は、結構現代美術っぽいことをやっている人も多くなってますね。そこら辺の境界線がわかりにくくなってきている。

赤岩     やはり一般化してきているということですよね。

千房     コンピュータは誰でも使えるし、王道のメディアアートは今どこにあるんですかね?

赤岩     お台場とか?

やはりエンターテインメントの方向が強いですよね。

千房     こちらでもメディアアートは商業的になっていますね。例えばコンサートの演出のような方向に行きがちですよね。単体としてアートとして成立しているものはまだ少ない気がします。

映画も同じ気はします。Netflixなどで日常的に映画を見ることができているから。コロナ禍によって誰でもオンラインで映画を見ることになって、内容も実験的なものと商業的なものの境界が揺れているような気がします。

赤岩     実験的なものが浮上しているってことですか?

実験的だったり、自主制作している人がNetflixでの制作に介入したり、そういうことができるチャンスが増えてきている気がします。

赤岩     それはいいですね。Netflix見ていて、アメリカの場合、エンタメばっかりで、こんなものばかり見ていたら頭が固まっちゃうよっていう感じだから。実験的なものが混ざってきたらすごくいいですよね。

千房     実験的な人たちが実験映画的なものをそのままやるってことですか?

それは厳しいかもしれないですが。ただ実験的精神を持った人が商業を啓蒙していくと面白いかなとは思いますね。メディアアートもただエンタメ化するのではなく、そういう方向に実験性が広がるといいという気はしますよね。

千房     最近はプラットフォームが変わってきていて、インスタグラムとか、YouTubeとか、あのサイズ感の作品だけになっていっている気はしていて。そのプラットフォームに乗らないと存在しないみたいになっている。《Realm》も単体のウェブサイトで、昔はスペシャルサイトと言って、ウェブサイトだけで何かを表現していることは商業的にも結構あったけれど、そういうのは姿を消して、YouTube Videoにフォーマットが変わったり、インスタの画面の中で、10秒で伝わるものしかなくなるとか。かえって多様性はなくなっている気はしています。

新作《Realm》について

新作《Realm》は、日本語で「領域」という意味ですが、作品について話していただけますか?

千房     NYがロックダウンになって、コロナの感染者も死亡者もアメリカが世界一に多い状況になってきた中で、近所にある、グリーンウッド・セメタリー(Green-Wood Cemetery)という広大な墓地に、ほぼ毎日のように、散歩に行っていたんです。そこは緑が豊かな自然の中に墓石があるというギャップがあって、大自然と人間が人工的に作った墓石、二つの全く異なったものが共存している環境です。そこに行くと、人と会うこともほぼないし、ウィルス感染という面でも安全な場所で、遠くにはマンハッタンのビル群が見えて、ウィルスで大騒ぎして人間の社会がすごく不安定になっているけれど、自然は何も変わっていなくて、それですごく心が救われていました。そういう経験があって、自分たちの立ち位置を考えると、ウィルスのことも科学的にほとんどわかってないし、感染経路もどういう病気かもまだわかってない、人間ってすごく奢っていたんだなと思ったんですね。いろいろなものがわかったつもりになってきたけれど、進化していく中でも歴史の中でも、実はまだものすごい中間地点にいる存在だということを考えたりしていました。

加えてウェブの技術的な話で、ロックダウンの時に、未発表の個展のために作品を作ったりする中で発見がありました。スマートフォンと同じアドレスを、パソコンのウェブブラウザで開くとリッチな画面が出てきて、スマホで開くと省略された画面になって、スマホで見るときは主観的で視野も狭まっているし、パソコンのブラウザで見ると客観的に広く見えるみたいな、同じ空間でも、全然違う見え方をしている、 その二つの領域の中間地点みたいなものが気になってたんですよ。だから全てにおいて、ロックダウンの中で、いろんなものの間にある中間地点みたいなことが、頭に浮かんで、ちょうどその時にネットアートをまたやりたいっていう希望も出てました。それまではちょっと物理的な作品が多かったですが、ロックダウンになった後にネットだけでしか存在しない作品を作りたい、そういう意識も芽生えて、そこら辺がすべての中間地点でパンと繋がったアイディアでした。

中間地点というのは、現在の接触できない状況を直接的に扱ってるのかと思ったら、実際のインターフェースの問題も扱っているんですね。

千房     今の時代は触ったら感染するなど、今までなかったセンシティヴさが問われていて、でもスマホはよく触る。だから画面にタッチすると指紋が表示される仕組みを作って、スクリーンが一枚の膜であることやよく触っていることを再認識させる意味も持たせています。スマホはより身近で身体的で、インタラクティヴで、でもウェブブラウザは、逆に全く接触ができない状態にする。その二面性がある構造を作って、その中間地点には何があるかを問うているところがあります。

メディア的な点でいうと、写真作品でもあって、ウェブブラウザで見ると、スライドショーになっていて、徐々に墓が見えてくる順番で写真を見せています。インタラクティヴ性が全くない写真というメディアであることとその裏側ではスマホからタッチができるという、インタラクティヴ作品と静的な写真というメディアとの中間地点ということも考えていました。

最初スマホで見ると、皆反応しますね。一般の人ほど反応する気がします。また美しい写真の雰囲気も、誰にでもアクセスしやすいですね。

千房     《Realm》はロックダウンの初期の頃から作っていて、そのままその時のナイーブな雰囲気が出ていて、結構今のこの状態を的確に表現できていると思って気に入っています。詩的でストレートにも見えますが、詩を構成する“言葉”としての、スマホなどのメディアやそれら同士の関係性を意識     しています。 今気が付きましたが、若い頃拒絶していた写真のような古典的なメディアと、夢から現実化していったインタラクティヴなメディアアートの両方の要素も持っていますね。今はそういう相反する要素を共存させることが、自分たちにとっての挑戦なんです。

(2020年6月13日 夜[NY]/ 6月14日 午前[東京]ヴィデオインタヴュー: 聞き手・構成=田坂博子 [東京都写真美術館学芸員] )