「エキソニモ UN-DEAD-LINK」展特別寄稿 藤幡正樹(アーティスト)

エキソニモの大掛かりな個展が、8月18日から東京都写真美術館で開かれている。コロナ・パンデミック中の開催のために、ニューヨーク在住のエキソニモが、搬入に立ち会えないという可能性もあったという。結果的に制約が良い方向へと働いたのか、まず一見して会場全体の印象が非常に良かったことをあげておきたい。

「美しい」から、「おもしろい」へ

今更、彼らの作品を「メディア・アート」と呼ぶ必要があるのかどうかは疑問だが、彼らが初期から扱っているテーマは、ネットワークやITと深い関係がある。いわばそうした相対的に新しい環境を、当たり前の日常空間として受け止めたところから彼らの活動は始まっているからだ。しかし、このコロナ・パンデミックがやってくる前までは、こうした情報空間を日常空間と等しいものとして扱うことに、さまざまな抵抗があった。抵抗があればこそ、現実空間と情報空間をどのようにつなぐかの議論が有効だったわけで、作品を通してさまざまな問題を提起することは、未来を予測することであり、意味があった。それが、机上の空論でも概念の世界の話でもなくなった。「緊急事態」が社会に最後の一撃を与えて変化させてしまったのである。僕らは十分な準備をしてきたかもしれないが、今はそれが起こっている現場に僕らは立ち会っている。

美術館の機能や役割もパンデミックによって再考を迫られている。美術館にとっては空間こそが命であり、そこへ複数の鑑賞者が訪れて、共通の体験を分かち合うことが美術館の意義である。そこは、「見るため」の場所であり、そこでの共通体験が共同体を維持する力となる、そういう場所だ。ちなみに、文化とはこの共通体験によって育まれた内容のことを指すのである。そこを核として、それぞれの国のアイデンティティーが生まれてくるのである。と、流れるように論理を展開してはみたが、この考え方は比較的新しいもので、なんのことはない西欧中心主義的な考え方である。しかしともかく、今はその場所が揺れている。ということは、この緊急事態は西欧近代社会の構造的問題に触れているのではないだろうか?

ここ30年ほどは、国という範囲を越えたところで経済活動が起こり、また文化が相互に享受されることを良しとしてきた。これは国を跨ぐ経済圏を作り出すことを良しとする半面、文化的な破壊につながるような側面も持っていた。共通の体験というものが、各国それぞれの領土を越えて発生し、国という単位とは違う複数の共同体が(例えばアップル国とマイクロソフト国という例を上げておこう)、世界中にリゾーム状に発生した。こうした物の流通は、実は情報の流通と深い関係がある。もっとも安い場所で製造したものを、もっとも効率良く売るためには、誰が何をどれ位欲望しているかを情報として知る必要があるからだ。初期のインターネットにおいては、インターネットにつながることは正義だった。これとグローバライゼーションの正義は、ほぼ完全に同一視されてきた。経済活動を情報と直結させることが正義であるとみなされてきたのだ。グローバライゼーションの後ろには、テクノロジーがピッタリとはりついていて、誰もがテクノロジーに触れることができること=人道的という議論は、そこに反論の余地を与えなかった。

西欧の近代社会において、美術館は近代を象徴する美が宿る神殿として設計された。そこは、何が美であるか?という問に答えてくれる場所であり、その美が共有される範囲において、共同体の存在が意識されるというわけだ。つまり、美が国を作るのであるという考え方である。美を維持するには美に対する感性と、それを再現してみせる技術とが必要であり、それを学び伝えるのが美術学校の使命とされた。だから、どの国へ行っても王様の衣服や室内の衣装を司る芸術家を育成するための芸術大学は、王立や帝立の場合がほとんどで、君主制の時代に創立されたものが多い(音楽も同様である)。戦前までは、芸術を学ぶとは「美」について学ぶことと等しかったのだが、戦後にはそこにそれ以外の見方が加わった。それは「美しい」という感覚的なものではなく、「おもしろい」という論理的な反応だ。「美しい」は自分の中にある美的経験とその場での鑑賞体験を照らし合わせるもので、そのためには経験と記憶が必要になる。しかし、「おもしろい」というのは、その背後にある理由や原因を知った時に生まれる理解であり、論理的な理解能力が求められる。例えば、美術館に入ったとして「なぜこんなものがここに置かれているのか」といった疑問が生まれる。しかし、いったんその理由を知ると「おもしろい」という理解が出てくるというものである。「おもしろい」のリアクションが生まれるためには、国単位での文化的背景よりも、現代をともに生きる人間として世界共通の問題意識の方が優先される。良く判らない事件の背後にある真の原因が判ると誰もが「なるほど」と言い、腑に落ちて「おもしろい」というそういったものだ。理解するという態度が美術の鑑賞に加わったのである。この問題はまたしてもヨーロッパなのだが、戦後のヨーロッパの各国は、言葉や文化の壁を越えてお互いの理解を深める必要性を強く感じた。そのために、特に芸術的な交流を非常に大切にした。しかし、それはお互いの独自の「美」を競うという、またしても紛争の火種に触れるということではなく、違いを尊重して、その違いを理解へと変換してゆくための芸術が必要になったのだ。

「おもしろい」について、ひとつ簡単な例をあげておこう。ワインを開けようとしたら、コルクが乾いていて瓶の口のところで割れてしまって、取り出せなくなってしまった。あなたならどうするか? みんないろんな道具で挑戦するが、コルクは砕けてゆくばかりである。と突然に、一人がぐっとコルクを押し込んでワインの中にコルクを落とした。めでたしめでたし。みなが手前に取り出すことばかり考えていた時に、彼は押し込むことを思いついたのである。「あー、こんな開け方もあったんだ」と気付いた時には、これを「おもしろい」と思うのではなかろうか。戦後の芸術の展開も、少しだけこのワインのコルク落としに似ている。誰も思いつかなかったような、キャンバスの使い方の競争であるとか、ある種の掟破りの連続でもあるが、この姿勢はその後も、ますます拡張し、ついには芸術の世界ではなんでもありになってしまった。今では音楽も建築も映画も芸術として展示可能であって、ジャンルはまったく問われなくなった。ここは境目がない(誰かの言っていたボーダーレスが当たり前)。要は、「ワインのコルク落としの術」があるかないかである。しかし、まあワインが開けばいいというわけでもないところもあって、それが長い文化の上に立つ芸術のおもしろいところでもあるが。

「おもしろい」から、「あるある」へ

さて、エキソニモの個展に「コルク落としの術」が、あったのかどうかに話を移してみよう。まず、コルクが抜けないというような事件は、あの展示の中のいったいどこにあったのか。会場全体が内装工事中、それも屋根裏の配線作業中、まずは床にあるケーブルは誤配線を暗示しているに違いない。これは5つのカテゴリーごとに色分けされていて、それを辿るとその作品がどのカテゴリーの作品かが判ると解説された。のであるが、これは嘘だろう。これは本当は「誤配」の暗示なのであると、断言したい。第一まず入り口にトグロを巻いているケーブルの先はつながってないじゃないか。こんな銅線で僕らが大切な情報をやりとりしていること自体がそもそも滑稽なんだけど、それが実態なのだ、と言わんばかり。むしろ来場者にニッパーを渡して、好きなように切ってもらったら良かったかもしれない。いやいや事件の臭いの話である。だいたい情報技術上の事故というのは、ケーブルをネズミが囓って漏電から家が燃えるといった物理的なものではない。ニッパーで切り刻むのはアナログなメタファーに過ぎず、これは妥当なアイデアではない、ということはエキソニモも判っているからニッパーを配ってくれなかったのだ、きっと。問題はもっとソフトウエアの側、目に見えていない部分、プログラムとかなんかそういう部分にあって、そうした事件や事故の予見を体験的な手法で可視化しようとしているのである。外装は目くらましであることに注意しよう。

実は、インターネット以前と以後の間には、決定的な世代間格差が生まれてきている。これまでのような事故とはまったく違った事故が、インターネットでは常に起こっているのだが、知ろうとしない人にはそれは見えない。知ろうとする人にとっては、その事故を目撃することが、ちょっとした英雄になるきっかけであったりもする。そうした事故原因が究明されて、共同体の中で拡散され、共有された時には、共同体が成熟に向かっているという意味で、みな喜びを感じるものである。その時彼らは「美しい」でも、「おもしろい」でもなく、実は「あるある」と発言する。これは「あらゆるバグは、あり得る。」といった意味であり、プログラマーとしての人間の限界を越えて起こった出来事=事故=事件を乗り越えることができて、嬉しいという状態のことである。

日常とか常識というのは、思っている以上にすぐに変わっていくもので、生まれた時からインターネットがある世代にとっては、「インターネットがある」という言い方自体がすでに、おじさん臭い。それはすでに環境化しているからだ。こうした世代の中にも当然、探究心のある人はいるわけで、インターネットを作ってきた側が、自分たちで作ってきただけに知っていると思いこんで、奢っている時に、旧世代(そんなに古いわけじゃないけど)の知らなかった可能性やバグを浮かび上がらせることだってある、はずだ。例えば「PayPay」の仕組みを教えてもらった時には驚くと同時に、なるほどこういう手があったか、確かにこういう手口があったなあ、で確かにこれは「あるある」と思ったものだ。ネットでの決済は、受け取る側の負担があまりにも高いので、ずっと問題になっていたのだが、このPayPayでは受け取る側が行うのはほとんど、QRコードを刷ったパネルを置いておくだけという、これ以上無いぐらいに敷居が低くなっている。誰が思いついたのかは知らないけれども、これなどまさに刺激的で、創造的な「あるある」である。優れて創造的な仕事というのは後から見ると大抵は簡単なもので、プログラムだったら1000行かかっていたコードを5行で書いたみたいなことを言うのだ。

というわけで、この個展会場では、「美しい」ではなく、また「おもしろい」でもなく、この「あるある」が非常に重要になる。作品の作り手側からすれば「あるある」に至る筋道を立てること、そういった偶然を生み出すための予測不可能な状態を引き込むことが作品を制作するということである。自分でおもいついたかの錯覚を起こさせる、と言ってもいいかもしれない。しかし、予測できないバグを設計して作品に組み込むことは、機械という繰り返しを基礎とする装置にとっては、非常に難しいことだ。予測不可能な現象を起こす仕組みとはどうすればできるのか、物理的な対象、現象的な対象、もっとも繰り返しに弱く、再現性に乏しいものを入れたらいいんじゃないかと考えると、なまものである人間を介在させることが、おもしろいことに、もっとも重要になるのではないか。それはまた美術館という人間が経験をする場所の機能とも重なってくるわけだが、こうなってくることで、鑑賞者の果たす役割は鑑賞者から、ユーザーへと移行する。これはメディア・アートのアイデアが生まれた頃からずっと言われてきたことだが、これはもうメディア・アートだけの話ではなくなっている。

「あれこれ」ということ

会場にいると、誰も何もしていないのに、西欧文化の歴史が集積されたピアノの鍵盤が叩かれて、実に美しい音が出る。ユーザーは、何か自分の動きが感知されて鍵が押されたのではないかと、辺りをうろうろと見回すわけだ。典型的なインタラクティブアートのリアクションである。従来型の鑑賞者は、ユーザーになることができずに、自分のことが馬鹿にされていると感じて、さっさと帰ってしまうかもしれないが、それが正しいリアクションというもので、鑑賞者のままの方は、我慢されない方がよろしい。この一見偶然と思われた現象は、2つの異なった系の中にある時間が、その時交差したことで生まれたものだ。現実とは違う系とは、この展示室にいる自分とは別の電子空間にいる誰かの空間上の振る舞いが起こしたものなのである(ゲーム上で死人が出た時と解説された)。この作品は《UN-DEAD-LINK 2020》という作品であり、まさに誰も死んでいないし、系相互のリンクが死んだわけでもない。で、その理由が判ってしまうと笑ってしまうわけで、これが「あるある」なのである。まあ、映画の伏線のようなもので、観客はその男に鍵を渡してはいけないことを知っているのに、主人公は知らずにその鍵を男に渡してしまう。ここでユーザーは、何も知らない映画の主人公から、知っている観客へと移動することで「なるほど」と思い、「あるある」と言う。ところで、テクノロジーは発明された段階では魔術に見えるし、そこで執り行われている一連の出来事=実験は、必ずオカルトに見える。オカルトは超常現象と呼ばれているが、考え方によっては異なった系がつながっただけなのではないだろうか? 科学が未来を先取りしているから、遅れた現実から見るとそれは魔術に見えるものだ。

映画といえば、ヒッチコックが使う「マクガフィン効果」というのがある。主人公が何者かに追われている時に、観客にはその「理由」を説明する必要はないというものだ。その原因に当たるらしきブツを「マクガフィン」と呼ぶのだが、映画ではマクガフィンを巡って、その理由が判らなくとも、観客は十分にハラハラドキドキしながら映画を楽しむことができるというのである。会場の一番最後の箱型に囲まれた暗い部屋の壁に、緑に囲まれた墓地の写真がスライドショーされていて、美しい。《Realm》という作品である。最近のデジタルカメラの解像度は高く、色彩の再現性も良くなったものだと関心している場合ではない。即座に画面の真中に四角い「マクガフィン」が貼り付いていることに気づく。「あれは、なんだい?」「君の指紋さ、ほらこのスマホを触るとあそこにそれが出るのだ」さて、文章が指示詞だらけになってしまった。「あれ」とか「これ」とかいう、「何か」を指し示すだけの言葉のことを文法的に、「指示詞」と呼ぶ(こういう高度な知識は僕が自分自身で学習したのではなくて、フランスの友人のジャン=ルイ・ボワシエから教わったことだ)という。メディア・アートを議論する時は、この指示詞が大量に出てきてしまうことに注意しよう。言葉で語る以上、どうしても指示詞を使うしか方法がない。できれば、その場にいっしょにいることがとても重要になる。グレゴリー・ベイトソンだったと思うけれども、「英語しか話せない人が、英語を話せない人に、電話だけで英語を教えることは不可能だ」と言ったように、言語の学習というのは体験的に、現実空間の対象物を介してしか行えない。電話では、「それ」とか「あれ」といった指示詞が使えないということだ。

この作品では、現実の自分と画面の中に逝ってしまった自分の指紋と対面する。「これがあれになった」とでも言えばいいだろうか。で、この白い板とはいったいなんなのか、それは手元のスマホのタッチパネルのコピーであると同時に、スクリーン上の光の明滅でもある。とはいえ、ひとまずその機能が判ったとして、つまりブラックボックスの仕組みが判ったとしても、実際にはなにも判ったことにはならない、依然としてマクガフィンの意味は不明だ。なので、より良く理解しようとする人は、何度もスマホにタッチする、「でもそれは『マクガフィン』なんだよ、君。」タッチすることに熱狂させることが、この作品の目的なんだよ。まあ、もうちょっと美術的に考えてみよう。まず、背景が墓であること、それがニューヨークのパンデミック中に撮影されたものであること、そもそも触れるってコロナ禍で最大限忌み嫌われる行為だよね、といった事象が連想されてゆく。こうなってくると、スクリーンにタッチすることは、お墓を擦るに似ているし、亡霊との交信はことばではなくて、タッチでやるしかないとか、あーきっと死者との交信がテーマなんだとか考えてしまうかもしれないが、しかし、それを聞いてほくそ笑んでいるのが、エキソニモというものだろう。そういえば、そもそもエキソニモは、ワインなんか飲まないんじゃなかったかな。だからコルクを抜く必要もないのかも知れない。